タイトル | ゴンゴンの夏休み自由研究 ― 風俗の歴史? 遊廓編 ― |
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投稿者 | タンスにゴンゴン |
投稿日 | 2022年08月21日 |
『ゴンゴンの夏休み自由研究 ― 風俗の歴史? 遊廓編 ―』 どーも、タンスにゴンゴンと申します。 そろそろ夏休みも終わる時期ですね~、みなさんは自由研究🔍は得意でしたか? 幼い頃より知的好奇心が旺盛だった私は自由研究が大好きで、ここ最近は“痴的好奇心”も旺盛に…ということで、大人の自由研究としてこれまでの遠征風活や遊廓・赤線跡探索で調べ集めた情報などから、風俗のちょっとした歴史を私見を交えつつ勝手にまとめてみましたので、興味のあるかたはお付き合いのほど🙇 【風俗嬢の起源は、あのコスプレの…!?】 奈良時代、神社にいる巫女さんが穀物や布といった物品を対価に宴席に赴いて舞いを披露し夜は床を共にするコンパニオン的な事を行っていたそうです。 ここでの交わりは性行為目的というより、巫女と体を交える事で神と繋がることができる…神事というかスピリチュアル的なものだったようです。 この巫女さんは、遊女の語源となる『遊行女婦(うかれめ、あそびめ)』と呼ばれ遊興で男性を相手する女性を指す言葉となり、かの『万葉集』にも貴族の宴席で歌詠みや踊りを披露する“遊行女婦(宇加礼女)”が登場するそうですよ。 平安時代になると、神社の門前や廻りに遊里が作られ参拝客達を受け入れる…デリから箱方式に代わっていったそうですが、中には神職を終えた巫女さんがセカンドキャリアに困り、舞いや見真似の儀式と夜伽を行い対価として金銭を得ていたケースもあったようで、こちらは性行為目的の要素が強く性産業の起源としてはこの頃と考えても良いかもしれません。 巫女のコスプレに萌えるのは、日本男児の本能なのかもしれませんね。 黒髪ロング娘が大好物の私としては、巫女さんにご亀頭…もとい、ご祈祷いただきたい🤤 【遊廓を公設した好色の名傑】 現在大河ドラマが佳境を迎えている鎌倉時代には神社・寺院の門前の遊里のみならず、参道・街道筋の宿場には旅籠での宿泊客を相手に夜伽をする『飯盛女(めしもりおんな)』なども現れ各地に売春を生業とする遊女が増加。 室町幕府になると、遊里は“遊廓”という明確な形となって遊女たちはそこに集い、幕府も遊女を徴税対象にするほどの大ビジネスになります。 そして、世は乱れて戦国→安土桃山時代に入ると、乱世と共に“乱性”も統一しようと考える名将が現れました。 それは…好色で有名な、豊臣秀吉🐵です。 秀吉は大阪城の築城とその城下町整備にあたり、現在の道頓堀の辺り大阪三郷に遊廓の設置を命じます。 これまでの遊廓は自然発生でしたが、遊廓そのものを政府公認で開設したという事であり、そこにいる遊女は“公娼(公婦)”となりました。 さすが、一夜にして素の股…もとい墨俣城🏯を築いただけのことはあります! 秀吉は続いて京都二条柳町(後に移転で島原遊廓)にも設置し、これらの街割りなどは遊廓のフォーマットとなります。 【これがいわゆる遊廓だっ!】 ┏━━━━━┓ ┃┌┬┬┬┐┃ ┃│││││┃ :╪╪╪╪╪: ┃│││││┃ ┃└┴┴┴┘┃ ┗━━━━━┛ ━…囲い =…仲ノ町 |…小路 :…大門 入り口となる“大門”が片側あるいは両側に設置され、塀や堀(お歯黒どぶ等)などで囲ったエリアが“遊廓”です。 大門から延びるメインストリートを“仲ノ町”と呼び遊廓では最も華やかな通りで、そこから枝のように小路が延び区画を形成します。 遊女達とお遊びする建物が“妓楼”であり、そこに行くことを登楼と言いますね。 妓楼は今で言う和風旅館のような作りで、入り口の脇に遊女の顔見せ用の大きな格子窓があるのが特徴。 遊女をこの様子と身の上と併せて“籠の中の鳥”と例えられたのです。 主に2階建てで大きな楼だと中庭があったり、各部屋の窓には提灯が提げられ、透かし彫りなど手の込んだ意匠の手すりが付けられるなど華かな作りだったようです。 この他、遊廓に付き物だったのが、 『🛂検番』…大門の脇に置かれた監視用の建物。 『♨銭湯』…主に遊女が浸かるため。(妓楼のお風呂は楼主一家用) 『⛩️神社』…妓楼の商売繁盛や、遊女の信仰、祈願に。 『🌾柳』…艶やかさを演出するため内外に植えられた。 【遊廓の黄金期=エロ幕府】 話を戻し、江戸幕府に入ると遊郭はさらに広がりを見せます。 まず代表的な出来事が、江戸城下の整備や発展のため各地から職人や人夫が大勢訪れ、風紀の乱れと性犯罪の増加と、それらを相手に遊女たちも集まり無秩序な売買春による性病の蔓延が危惧されたため、幕府は現在の日本橋人形町に「吉原遊郭」※を設置。 以降、長崎・丸山など江戸時代末期には全国に20箇所ほどの公設遊郭があったようです。 ※後に大火で焼失(“吉原炎上🔥”ぢゃないよ)し、浅草に移転した「新吉原遊郭」がみなさんご存じの“吉原”ですね。 そして参勤交代の為に東海道を始めとする五街道を整備したことで宿場町が発展し、それに併せて飯盛旅籠(遊女がいる宿)や遊里・遊郭も自然発生で増加。 またお伊勢参りがブームになると、その参道や伊勢神宮周辺にも遊郭ができたのはブラタ○リのお伊勢参りの回で紹介されていました。 【一悶々着の明治期】 明治時代に入ると当時の世界では人身売買が国際問題となっており、日本でもマリア・ルーズ号ふね🛳️事件で公娼(の身売り)が問題視されたのを期に、明治政府は娼妓解放令(妓楼主が遊女を前借り金完済を条件付けて抱えちゃダメ)を布告。 しかしこの布告、その前借り金消滅の理由が “娼妓芸妓は人身の権利がなく牛馬と同じで、牛馬に借金返済は迫れない” という、とんでもない言い様。(るろ剣で駒形由美姐が怒ってたやつ) しかも遊女に対する金銭的な保証・補助はない上に、そもそも売春は禁じたわけではなく、同月に貸座敷制度(楼主が部屋を遊女に賃貸して商売をさせるのはOK)を発足させたことで、結局遊女はただフリーランスになっただけという…なのでこの後の廃娼運動の火種となります。 一方でこの明治期には、 ■居留外国人向けの遊廓 → 福原 ■僻地開拓者の引き留め → すすきの ■軍都の兵員の慰安 といった名目、役割での公的遊廓の新規設置もありました。 そしてこの頃から、遊里や祇園の様な花街も含めて…今で言う“歓楽街=遊廓”ととらえられるようになります。 …ということで、長文となって参りましたので今回はここまで。 続きは“赤線・青線編”をお送りしますので、興味があるかたはお付き合いのほど。 | |
この風俗コラムへの応援コメント(13件中、最新3件)
- edokuruwa(149)2022/8/29>>タンスにゴンゴン(187)の『ゴンゴンの夏休み自由研究 ― 風俗の歴史? 遊廓編 ―』のコラム大作拝読、投稿ありがとうございます。
神様たち(とりあえず複数形です)も人間が生きる原動力は性欲と食欲ということはご存知でしょうから、最初のそういうお仕事が祈りの場にあることは想像がつきます。
演劇も元々は神様たちに奉納するものだったそうですから、浅草に劇場と遊郭ができたのでしょう。
奈良時代から書かれていて楽しかったです。
次回作リクエストです。吉原が赤線からソープ(最初はトルコ)になっていった経過にはとても興味があります。まだ生きている方もいるせいかその転換がよくわからないのです。